はじめに|“朝の物語”が届かないとき、私たちは何を見ているのか
「朝ドラ、もう誰も見ていないんじゃない?」という言葉が、つい友人との会話に出てくるようになった昨今。でも、本当にそうなのでしょうか。NHKの連続テレビ小説(朝ドラ)は、1961年からの60年以上、私たちの“朝の15分”を支え続けてきました。
家族と笑い、ひとりで涙を流し、時に明日へのパワーをもらう。そんな日常の旋律を紡いできたはずです。
ところが近年、歴代ワーストと呼ばれる作品が次々に生まれ、「視聴率13%台」などという数字が、あたかも“終わりの鐘”のように報じられています。ただ、これは本当に「終わり」を告げているのでしょうか。
数字の裏に潜む、視聴スタイルの変化、若者との接点、そして制作現場の挑戦と葛藤。今回は歴代最低視聴率の作品群に光を当てながら、「なぜ届かなかったのか」を、時代と感情の両面から深く読み解いていきます。朝ドラはまだ、物語になれるのか──その問いを胸に、ご一緒に歩んでみましょう。
朝ドラ歴代視聴率ワースト10ランキング【2025年最新版】
まずは、関東地区の世帯平均視聴率(ビデオリサーチ調べ)を指標にした、歴代ワースト10作品を振り返ります。
順位 | 作品名 | 放送時期 | 全話平均視聴率(世帯) |
---|---|---|---|
1 | おむすび | 2024年後期(橋本環奈) | 13.1% |
2 | ウェルかめ | 2009年後期(倉科カナ) | 13.5% |
3 | つばさ | 2009年前期(多部未華子) | 13.8% |
4 | 瞳 | 2008年前期(榮倉奈々) | 15.2% |
5 | 舞いあがれ! | 2022年後期(福原遥) | 15.6% |
6 | ちむどんどん | 2022年前期(黒島結菜) | 15.8% |
7 | ブギウギ/ちりとてちん | 2023後期/2007後期 | 15.9% |
9 | だんだん/天花 | 2008後期/2004前期 | 16.2% |
10 | おかえりモネ | 2021年前期(清原果耶) | 16.3% |
- 『おむすび』は関東の世帯視聴率で平均13.1%、個人平均は7.4%に落ち込んでおり、2009年後期の『ウェルかめ』13.5%を下回って歴代ワーストとなりました。
- 2位・3位には2008〜2009年の現代劇(『ウェルかめ』『つばさ』)が並び、これらの多くは平成以降の現代舞台となっています。
- 現代劇が下位を占める中、時代物や昭和背景の作品(『花子とアン』『あまちゃん』など)は依然20%台後半を維持し、高い水準を保っている点も興味深い傾向です。
『おむすび』は本当にワーストなのか?──13.1%の意味を読み解く
2024年後期の朝ドラ『おむすび』は、全話平均視聴率13.1%という数字を残しました。これは、歴代朝ドラの中で最も低い視聴率とされ、SNS上でも「大失敗」「朝ドラ離れの象徴」といった声が目立ちました。
けれど私は、この“13.1%”という数字を単なる「不人気」として括るには、あまりにも表層的すぎると思うのです。むしろこの作品が放送された「時代の気配」と「見えない感情」を読み解くことで、朝ドラが今どこにいて、どこに向かおうとしているのかが見えてくるのではないでしょうか。
リアルタイムでは届かなかった“問い”の物語
『おむすび』が描いたのは、「ふつうのごはん」が持つ記憶と、ケアされにくい“見えない労働”の物語でした。主人公・米田結は、派手なネイルと語尾に「〜っちゃ」をつける平成ギャル。その見た目の強さとは裏腹に、彼女は家庭や地域の“誰にも気づかれない善意”をすくいあげていきます。
でも、その描かれ方があまりに繊細すぎたのかもしれません。脚本家・根本ノンジ氏の筆致は、派手なカタルシスを避け、淡々と日常を積み重ねるスタイル。序盤から「伏線が多すぎてついていけない」「15分でこれは重い」といった感想が相次ぎました。
視聴者が“何を期待してチャンネルを合わせるのか”——その期待に、真っ向から応えない誠実さと、無視してしまった不器用さが、両方あったのだと思います。
“朝ドラらしさ”の再定義を迫られた挑戦作
『おむすび』は明らかに、朝ドラの定型を揺さぶろうとしていた作品でした。舞台は昭和や戦後ではなく、2010年代以降の福岡。ヒロインは控えめでも健気でもなく、強くて派手でうるさい。テーマは「家庭料理と地域の繋がり」、そして「ケアワークの不可視性」。
これは「母親」や「主婦」という役割を、ただ称賛するのではなく、“問い直す”視点だったように感じます。たとえば、祖母の味を継いだ“おむすび”が、地域の高齢者や子どもたちに静かに広がっていく描写。そこには、「誰かの手間が、誰かの命を守っている」という大切な実感が込められていました。
でも、それは“ドラマチック”とは真逆の表現でした。つまり、地味で、遅くて、回収されないまま終わってしまった伏線も多かった。だからこそ視聴者は、戸惑い、チャンネルを変えてしまったのでしょう。
橋本環奈という女優の“新たな輪郭”
主演・橋本環奈さんの起用も、大きな話題になりました。彼女はこれまで「奇跡の一枚」で知られるアイドルイメージが強く、実力派としての評価はまだ道半ばでした。
しかし『おむすび』では、化粧が濃く、感情の起伏が激しい役柄を、抑制された演技で演じきり、新たな一面を見せました。私は、とくに彼女が一人で黙っておにぎりを握るシーンに、強い“演技の底力”を感じました。それはもう、台詞ではなく「気配」で語る女優の仕事だったと思います。
放送最終週、彼女が誰にも看取られずに握った“最後のおむすび”を、視聴者はどう受け取ったのでしょう。静かな余韻と、画面越しの空腹感。そのふたつが混ざり合うとき、私は確かに「心に残る作品」を見ていたのだと思えました。
“ワースト”の奥にある、届かない声へのまなざし
『おむすび』は視聴率では評価されなかったかもしれません。でも、それは必ずしも“失敗”を意味するわけではないのです。
むしろこれは、届きにくい声や見えにくい存在へと、正面から向き合おうとした物語だった。その試みは、数字には表れないかもしれない。でも、いつか数年後に再放送や配信で触れた誰かが、「これ、なんでリアルタイムで見てなかったんだろう」と呟く未来があると、私は信じています。
“視聴率が低い=失敗作”ではない──ワースト作品に見る“挑戦”の形
視聴率がふるわなかった作品に対して、つい私たちは「失敗」という言葉を使いがちです。けれど、果たしてそれは本当に“失敗”だったのでしょうか。
朝ドラという公共放送の文化装置が、変わりゆく時代とともに模索し続けてきた挑戦の歩みを見つめるとき、そこにはむしろ“覚悟”と“希望”が見えてくる気がするのです。
『ウェルかめ』『つばさ』『瞳』──「今」を描こうとした勇気
歴代ワースト上位に並ぶ『ウェルかめ』『つばさ』『瞳』はいずれも、平成の現代劇であり、「ごく普通の女の子が、自分の道を模索する」ことを主軸に据えた作品でした。
『つばさ』では地域FM放送局、『ウェルかめ』では雑誌編集、『瞳』では養育里親という、メディアや福祉を舞台にした物語が展開されました。これらは決して派手ではないけれど、「等身大の若い女性の仕事と人生」を真正面から描こうとした作品群です。
しかし、当時の視聴者からは「地味すぎる」「主人公に感情移入できない」「盛り上がりに欠ける」といった声も多く、数字にはつながりませんでした。けれど私は、彼女たちが背負っていた“普通さ”や“葛藤の微細さ”こそ、時代の空気を映していたのではないかと思うのです。
朝ドラが「時代を超えて語られる」ための準備
高視聴率を記録した『あまちゃん』や『カムカムエヴリバディ』のように、「記号性」や「ノスタルジー」を武器にした作品は、物語の入口が明確で、共感の波を生みやすい傾向があります。
一方、『おむすび』や『舞いあがれ!』のような“静かな物語”は、放送当時には理解されにくくても、数年後に再評価されることがあります。たとえば『ちりとてちん』は、放送当時は16%未満の数字にとどまりましたが、今では「朝ドラ史に残る傑作」として語られています。
“数字に反映されなかった熱量”こそが、作品の記憶を時間の中で温め、次の世代へと繋いでいくのです。つまり、視聴率が低かった作品の多くは、「未来に届く種」をまいた挑戦作だったのではないでしょうか。
“視聴率の外側”で、物語は何を残したか
かつての朝ドラは、30%を超える視聴率を「当たり前」としていた時代もありました。しかし現代は、テレビ離れ・多チャンネル化・オンデマンド視聴といった視聴行動の多様化が進んでいます。
そんななかで、NHKの“連続テレビ小説”という枠組みは、「見られるための工夫」よりも、「語り継がれるための物語性」を優先しようとしているように見えます。それは、メディアの在り方そのものを問い直す営みでもあり、放送文化の最後の砦としての矜持でもあるのです。
だからこそ、「視聴率が悪い=失敗作」という等式を、私たちは一度手放してみてもいいのかもしれません。その代わりに、「その作品は、何を残したのか?」という問いを、そっと心の奥に持ち続けていたいのです。
視聴率が語らないこと──データの外にある“感情の評価”
視聴率とは、数字です。けれど、ドラマの記憶とは、数字では測れない“余韻”でもあります。たとえば、放送から何年も経ってもふと思い出すセリフ、ふいに重なる風景、登場人物の誰かと重ねた自分の経験——。それらは決してグラフや表にあらわれないけれど、私たちの心に静かに残り続けます。
「見ていない」のではなく、「別の時間に出会っている」
いま、NHKの番組はNHK+やTVerなどで見逃し配信され、リアルタイムでテレビの前に座る人の数だけが“評価”ではなくなりました。たとえば子育て中の母親が、夜中にまとめて数話観て泣いた。あるいは、社会人1年目の若者が日曜に一気見して、「主人公の言葉に救われた」とSNSに投稿した——。
そうした“非計測的な視聴”こそ、いまの時代における感情の消費のあり方ではないでしょうか。視聴率が下がっても、それは「共感されていない」こととは違うのです。
「好きだった」と言えることの力
私のもとには、noteのコメント欄やTwitter(現X)のDMなどを通じて、さまざまな読者の声が届きます。そのなかには、「周囲では評判悪かったけど、私は『ちむどんどん』が好きでした」「『おむすび』の主人公が母と重なった」など、自分の言葉で作品への愛を語る方も少なくありません。
それは、あえて“空気を読まない”勇気でもあります。視聴率や世間の評価に流されず、「自分がどう感じたか」を大切にする——。この感性こそ、いまの朝ドラが観客に託しているテーマの一つかもしれません。
「見逃したくない気持ち」が、数字以上の熱量を生む
たとえば『カムカムエヴリバディ』が、リアルタイムと再放送・配信の両面で高評価を得たのは、「もう一度あのセリフを聴きたい」「細かい演出を見返したい」という“二度観たくなる感情”があったからでしょう。
『おむすび』にもまた、「あの回、静かに泣いてしまった」「結の孤独が、自分と重なった」という感想が散見されます。つまり、そこには“言語化されていない好意”や“こぼれ落ちた共感”が確かに存在しているのです。
視聴率が語れないこと——それは、「心がどこまで動いたか」という感覚の物差し。私たちはいま、その計れない何かと向き合う時代に生きているのかもしれません。
なぜ私たちは“ワースト”に惹かれるのか──朝ドラの社会的役割と、今後の可能性
数字だけ見れば“ワースト”とされる作品たちが、なぜこんなにも話題になるのでしょうか。私はそこに、日本社会が朝ドラに求めている「もうひとつの役割」が浮かび上がってくるような気がしています。
「うまくいかない人」へのまなざし
朝ドラの多くは、主人公が努力や偶然を重ねて夢をかなえていく物語です。でも、視聴率が低かったとされる作品たちは、むしろ「何かを失った人」「期待に応えられなかった人」を描いてきました。
『おむすび』の結も、「いい子」でも「優等生」でもありませんでした。失言し、空回りし、何度も挫折します。でも彼女は、“おむすびを握る”という小さな営みの中に、社会との繋がりや人間の温もりを見出していきます。
そんな姿に私たちは、「がんばっても報われなかった記憶」や、「誰にも見られていない努力」を重ねているのかもしれません。だからこそ、“ワースト”とされる作品にこそ、どこかほっとする自分がいるのです。
朝ドラが「社会の鏡」であり続けるために
朝ドラは、家庭という日常空間の中で、ジェンダー、世代、地域、労働、教育といった社会の断面を映し出してきました。それはニュースよりも生活に近く、評論よりも感情に近い、ある種の「体感的メディア」でもあります。
たとえば『まんぷく』では戦後の食文化が、『スカーレット』では女性陶芸家の孤独と闘いが描かれました。どれも、数字以上の“語られた記憶”を残しています。
今後、朝ドラが若い世代にも届くためには、「わかりやすさ」や「共感」だけではなく、「問いを投げかける力」や「共感の届かない場所への想像力」が必要になってくるでしょう。
“ワースト”が教えてくれる、希望のありか
視聴率が伸びなかった作品は、決して無駄ではありません。それらは、「何が届かなかったのか」「なぜ観られなかったのか」を教えてくれる貴重な手がかりです。
たとえば『おむすび』を通して、「現代の若い女性が背負わされる無意識の役割」や、「ケア労働の不可視性」について考えた人も多かったはずです。それはドラマでしか描けない、そしてNHKでしか届けられないテーマです。
朝ドラが「みんなが観ていた時代」から、「誰かが深く受け取る時代」へと移行している今。私たちは、“数字では測れない価値”をもう一度信じてみる必要があるのかもしれません。
まとめ|数字の奥にある“物語の余韻”を信じて
「朝ドラ、もう見ていないよ」「視聴率ワーストってことは、つまらなかったんでしょう?」——そんな言葉が飛び交うたび、私は少しだけ寂しくなります。
たしかに、『おむすび』は13.1%という数字を残しました。それは記録として「最低視聴率」とされるかもしれません。でも、その物語を「朝、静かに観ていた誰か」がいて、「あのセリフ、心に残ってる」と言ってくれた人がいた。その事実こそが、私には何よりも大切に思えるのです。
ドラマは、ただの娯楽ではありません。それは、他人の人生を通して、自分の感情に出会うための「感情の鏡」なのだと思います。そして朝ドラは、その鏡を毎朝そっと差し出してくれる、小さな窓です。
だからこそ、視聴率だけでは測れない“余韻”を、私たちは大切にしていきたい。「数字」は終わった作品を語っても、「記憶」は今も続いているからです。
“ワースト”と呼ばれた作品たちが、どこかの誰かの“最愛の物語”になっているかもしれない——。その可能性を信じながら、私は明日もまた、朝のドラマを見つめ続けていきます。
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